中島佑太は私たちが持っている「当たり前」を、日常とは異なる視点から問い直し、ワークショップや遊びの要素を取り入れた活動を通じてその再構築・書き換えを試みる。その試みは一見ほのぼのとした緩さを持ちつつも、公共の在り方、共同体、社会的分断などの題材を内包し、ルールやタブーといった身のまわりのテーマに切り込んでいる。中島のモットー「1人でやらない、みんなでもやらない」は、創作が孤独な作業であるという芸術のイメージを覆すと同時に、何かを完成させなくてはいけないという固定観念を軽やかに退ける。
今回中島は展示に向けて、数か月間3組の家族とともにプレワークショップを行った。開始時期はまだ感染者の増加が予断を許さなかった夏であり、作家と各家族のコミュニケーションはビデオ通話越しとなった。いつもと勝手の違う交流方法に戸惑いはあったが「玄関を超えていきなり居間に行く」ような、オンライン特有の距離感の発見もあったという。このワークショップは中島と家族がそれぞれ新しい生活様式を考え、それをお互いに交換し実施してみるというものだ。つまり実践の場は誰にも見えない家庭の中であり、その習慣が守られたかどうかはお互い自己申告である。「<マスク>と言わない」「明日のラッキーカラーを決める」などの”生活様式”は無論、実生活で役に立つことを目的としていない。このようなナンセンスなルールを家族が実施するというのは中島の過去のワークショップ/作品「家族のルールをつくる~杉谷家~」(2014年、鳥取藝住祭)にも共通しているが、相違点もある。地域に開かれた芸術祭であえて家庭内に閉じるワークショップをした「杉谷家」と、ステイホームの要請で家族と過ごす時間が増えたという社会変化を反映した「新しい生活様式」。家族のメンバー(+作家)で考えたルールを、毎年決まった日に儀礼的に実施する「杉谷家」と、他者から与えられたルールを短期間とはいえ日常的動作として習慣化するべく断続的に実施する「新しい生活様式」。後者には行政機関、メディア、専門家によって繰り返し喧伝される新しい生活様式を参照しつつ、それとの対比をつくろうとする態度が見られる。今回のワークショップは、与えられたルールをある程度実施した後フィードバックの機会があり、どのように更新するか決めていく合意形成・軌道修正の機会が設けられている。つまり、与えられた生活様式を批判的に見ることが促されている。
中島にとって、コロナ禍の数ヵ月の間の常識は「変えた」のではなく「変わってしまった」ものだった。 変化の主語に自分がいると認識するにはどのような条件が必要か、家族間のやり取りを通し、実験的に問おうとする姿勢が伺える。本展の会場では数か月間のワークショップの記録映像、やりとりの中で生まれた様々なものが、出発点となった杉谷家の、最新の2020年のワークショップ記録とともに展示される。
会場にはもう一つエリアがあり、中央には新聞紙でできた人の背丈ほどあるバリケードが聳え立つ。両サイドにはそれぞれ紙と筆記用具があり、ルールに関するアイディアを書いて向こう側とやり取りするよう、インストラクションが書いてある。
本作は2014年から中島が継続的に行っているワークショップ、「あっちがわとこっちがわをつくる」を着想点にしている。「あっちがわとこっちがわをつくる」とは、ある質問(給食に出るならハンバーガーとピザどっちがいいか、等)の答えによって2つに分けられたグループが、互いの間に新聞紙や椅子を用いてバリケードをつくり、風船にメッセージを書いて送り合うというものだ。一見微笑ましいが、"あっちがわ"と"こっちがわ”で顔が見えなくなった「他者」に対して人はどう振舞うのか、疑似的な境界線を用いた考察ともいえる。今回のバリケードは抽象的な分断を象徴しつつも、ソーシャルディスタンス、コロナ禍であぶりだされた格差、SNSでの匿名的やり取り、公共の安全のための監視システムとプライベートなど、様々な具体的連想を鑑賞者に促すものとなっている。素材である新聞は分断におけるマスメディアの役割を表しており、本展では、バリケードの形を変化させる機会を会期中不定期に設けている。
このように時間をかけて展示物が変形していく可能性を含め、中島の試みは「点」として完結するものではない。また、目的地にまっすぐ向かう線でもない。いくつもの点を拡散させ、そこから派生するものを迷い線も含めた線として提示しようとするものだ。それは近年中島がテーマに掲げる「旅」の遊歩感にも似ている。その迷い線の背景には、活動に参加する複数の他者の存在だけでなく、アーティストと参加者の関係における非対称性への葛藤や自己批判性も含まれているだろう。柔軟性を持った協働によるプロジェクトと、ある問題意識に根差した作家の表現はどのように両立しうるのか、引き続き中島の活動を注視していきたい。
今回中島は展示に向けて、数か月間3組の家族とともにプレワークショップを行った。開始時期はまだ感染者の増加が予断を許さなかった夏であり、作家と各家族のコミュニケーションはビデオ通話越しとなった。いつもと勝手の違う交流方法に戸惑いはあったが「玄関を超えていきなり居間に行く」ような、オンライン特有の距離感の発見もあったという。このワークショップは中島と家族がそれぞれ新しい生活様式を考え、それをお互いに交換し実施してみるというものだ。つまり実践の場は誰にも見えない家庭の中であり、その習慣が守られたかどうかはお互い自己申告である。「<マスク>と言わない」「明日のラッキーカラーを決める」などの”生活様式”は無論、実生活で役に立つことを目的としていない。このようなナンセンスなルールを家族が実施するというのは中島の過去のワークショップ/作品「家族のルールをつくる~杉谷家~」(2014年、鳥取藝住祭)にも共通しているが、相違点もある。地域に開かれた芸術祭であえて家庭内に閉じるワークショップをした「杉谷家」と、ステイホームの要請で家族と過ごす時間が増えたという社会変化を反映した「新しい生活様式」。家族のメンバー(+作家)で考えたルールを、毎年決まった日に儀礼的に実施する「杉谷家」と、他者から与えられたルールを短期間とはいえ日常的動作として習慣化するべく断続的に実施する「新しい生活様式」。後者には行政機関、メディア、専門家によって繰り返し喧伝される新しい生活様式を参照しつつ、それとの対比をつくろうとする態度が見られる。今回のワークショップは、与えられたルールをある程度実施した後フィードバックの機会があり、どのように更新するか決めていく合意形成・軌道修正の機会が設けられている。つまり、与えられた生活様式を批判的に見ることが促されている。
中島にとって、コロナ禍の数ヵ月の間の常識は「変えた」のではなく「変わってしまった」ものだった。 変化の主語に自分がいると認識するにはどのような条件が必要か、家族間のやり取りを通し、実験的に問おうとする姿勢が伺える。本展の会場では数か月間のワークショップの記録映像、やりとりの中で生まれた様々なものが、出発点となった杉谷家の、最新の2020年のワークショップ記録とともに展示される。
会場にはもう一つエリアがあり、中央には新聞紙でできた人の背丈ほどあるバリケードが聳え立つ。両サイドにはそれぞれ紙と筆記用具があり、ルールに関するアイディアを書いて向こう側とやり取りするよう、インストラクションが書いてある。
本作は2014年から中島が継続的に行っているワークショップ、「あっちがわとこっちがわをつくる」を着想点にしている。「あっちがわとこっちがわをつくる」とは、ある質問(給食に出るならハンバーガーとピザどっちがいいか、等)の答えによって2つに分けられたグループが、互いの間に新聞紙や椅子を用いてバリケードをつくり、風船にメッセージを書いて送り合うというものだ。一見微笑ましいが、"あっちがわ"と"こっちがわ”で顔が見えなくなった「他者」に対して人はどう振舞うのか、疑似的な境界線を用いた考察ともいえる。今回のバリケードは抽象的な分断を象徴しつつも、ソーシャルディスタンス、コロナ禍であぶりだされた格差、SNSでの匿名的やり取り、公共の安全のための監視システムとプライベートなど、様々な具体的連想を鑑賞者に促すものとなっている。素材である新聞は分断におけるマスメディアの役割を表しており、本展では、バリケードの形を変化させる機会を会期中不定期に設けている。
このように時間をかけて展示物が変形していく可能性を含め、中島の試みは「点」として完結するものではない。また、目的地にまっすぐ向かう線でもない。いくつもの点を拡散させ、そこから派生するものを迷い線も含めた線として提示しようとするものだ。それは近年中島がテーマに掲げる「旅」の遊歩感にも似ている。その迷い線の背景には、活動に参加する複数の他者の存在だけでなく、アーティストと参加者の関係における非対称性への葛藤や自己批判性も含まれているだろう。柔軟性を持った協働によるプロジェクトと、ある問題意識に根差した作家の表現はどのように両立しうるのか、引き続き中島の活動を注視していきたい。
Viewing our everyday “assumption” from alternative perspectives, Yuta Nakajima rewrites and reconstructs them through workshops and activities having elements of play. while suggesting a relaxed warmth, his projects yet explore themes of publicness, community, and social division, sharply questioning familiar subjects such as rules and taboos. With his motto, “Don’t do it alone, don’t do it together either.” Nakajima turns the image of art as an artist’s lone pursuit upside down and lightly dismisses the stereotype that something must be completed.
For the present exhibition, Nakajima held pre-workshops with three families for several months. Having begun in summer when the rate of infections was still high, Nakajima and the families communicated remotely by video transmission. Despite communication methods bewilderingly different from what he was used to, the artist enjoyed discovering the sense of distance peculiar to online encounters - this “abruptly stepping into someone else’s living room.” In the workshops, Nakajima and each family endeavorered to imagine new styles of living, discussed them, and tried implementing them. The project, in other words, was practiced in the privacy of each home with participants reporting on whether they successfully obeyed the rules. Naturally, the new #styles of living” they decided on, such as “don’t say the word ‘mask’” and “ wear shoes on the opposite feet to and from preschool” were not aimed at convenience in everyday life. This same approach of setting nonsense rules is the basis of Family’s Rule (Sugitani)(Tottori Geiju Festival, 2014), but the two workshops also have points in difference. In Sugitani, the workshop was held privately in a family residence for an art festival opened to the community, while Atarashii Seikatsu-youshiki reflects social change under a pandemic - spending more time with one’s family as a result of a governmental advisory to stay home. In Sugitani, moreover, rules decided on by family members (and Nakajima) were observed ritually on a fixed day each year, while in Atarashii Seikatsu-youshiki, rules imparted by others were habitually observed in everyday life, albeit for a short period. The latter approach references the new styles of living actively being discussed by governmental entities, media, and experts, yet, at the same time, appears to seek a contrast with them. This time, Nakajima provided opportunities for getting the families’ feedback from trying out the rules imparted to them. and chances for consensus building and orbit correction to decide how to upgrade the rules. Thus, a critical look at the imparted lifestyle is promoted.
After several months under the COVID-19 pandemic,Nakajima did not “change” his own assumptions so much as experience them being “changed.” In his dialogue with the families, he can be seen testing the conditions necessary for him to be aware of himself as a subject of change.
Video imagery of the workshops held during several months and realization attained in discussions are exhibited in the venue along with video of the Sugitani family’s 2020 annual workshop, the project’s starting point.
Another area in the venue is divided by a head-high barricade of newspapers.Paper and writing tools are laid out on either side, along with instructions for participants to write down ideas for tules and hold dialogue with other side.
This work was inspired bu a workshop Nakajima held intermittently in 2014, This A side and That B side. in that workshop, two groups of people build a barricade using newspapers and chairs and sent balloons written with messages over the barricade to discuss a question (#Which would you prefer in your school lunch, hamburger or pizza,” for example). This activity, while light and fun in format, forced participants on “this side” to think how to behave toward participants on the “other side” whose faces they child not see. In this sense, it was an investigation using a pseudo-border.
The barricade this time, besides abstractly symbolizing division, evokes concrete associations for viewers such as social distancing and isolation due to the pandemic, anonymous SNS exchanges, and monitoring systems for public safety and privacy. The newspapers, as a medium, represent the role of mass media in a time of division. This time, moreover, chances to reshape the barricade are regularly provided during the exhibition.
As this suggests, the exhibits will disform over time, and Nakajima’s endeavor does not reach completion in itself. Neither does it develop on a straight line to a destination. It scatters a number of points, and phenomena arising from them is exhibited as lines, some of them wandering lines. In this, it recalls the free movement of “travel,” a theme Nakajima has taken up in recent years. Behind the lines’ wandering are not only the plural “others” involved in the activity but also the conflict and self-criticism imparting asymmetry to the relationship between artist and participants. hereafter, I want to watch Nakajima’s actions closely to see how his flexible collaborative projects find compatibility with his productions rooted in a particular problem, awareness.
For the present exhibition, Nakajima held pre-workshops with three families for several months. Having begun in summer when the rate of infections was still high, Nakajima and the families communicated remotely by video transmission. Despite communication methods bewilderingly different from what he was used to, the artist enjoyed discovering the sense of distance peculiar to online encounters - this “abruptly stepping into someone else’s living room.” In the workshops, Nakajima and each family endeavorered to imagine new styles of living, discussed them, and tried implementing them. The project, in other words, was practiced in the privacy of each home with participants reporting on whether they successfully obeyed the rules. Naturally, the new #styles of living” they decided on, such as “don’t say the word ‘mask’” and “ wear shoes on the opposite feet to and from preschool” were not aimed at convenience in everyday life. This same approach of setting nonsense rules is the basis of Family’s Rule (Sugitani)(Tottori Geiju Festival, 2014), but the two workshops also have points in difference. In Sugitani, the workshop was held privately in a family residence for an art festival opened to the community, while Atarashii Seikatsu-youshiki reflects social change under a pandemic - spending more time with one’s family as a result of a governmental advisory to stay home. In Sugitani, moreover, rules decided on by family members (and Nakajima) were observed ritually on a fixed day each year, while in Atarashii Seikatsu-youshiki, rules imparted by others were habitually observed in everyday life, albeit for a short period. The latter approach references the new styles of living actively being discussed by governmental entities, media, and experts, yet, at the same time, appears to seek a contrast with them. This time, Nakajima provided opportunities for getting the families’ feedback from trying out the rules imparted to them. and chances for consensus building and orbit correction to decide how to upgrade the rules. Thus, a critical look at the imparted lifestyle is promoted.
After several months under the COVID-19 pandemic,Nakajima did not “change” his own assumptions so much as experience them being “changed.” In his dialogue with the families, he can be seen testing the conditions necessary for him to be aware of himself as a subject of change.
Video imagery of the workshops held during several months and realization attained in discussions are exhibited in the venue along with video of the Sugitani family’s 2020 annual workshop, the project’s starting point.
Another area in the venue is divided by a head-high barricade of newspapers.Paper and writing tools are laid out on either side, along with instructions for participants to write down ideas for tules and hold dialogue with other side.
This work was inspired bu a workshop Nakajima held intermittently in 2014, This A side and That B side. in that workshop, two groups of people build a barricade using newspapers and chairs and sent balloons written with messages over the barricade to discuss a question (#Which would you prefer in your school lunch, hamburger or pizza,” for example). This activity, while light and fun in format, forced participants on “this side” to think how to behave toward participants on the “other side” whose faces they child not see. In this sense, it was an investigation using a pseudo-border.
The barricade this time, besides abstractly symbolizing division, evokes concrete associations for viewers such as social distancing and isolation due to the pandemic, anonymous SNS exchanges, and monitoring systems for public safety and privacy. The newspapers, as a medium, represent the role of mass media in a time of division. This time, moreover, chances to reshape the barricade are regularly provided during the exhibition.
As this suggests, the exhibits will disform over time, and Nakajima’s endeavor does not reach completion in itself. Neither does it develop on a straight line to a destination. It scatters a number of points, and phenomena arising from them is exhibited as lines, some of them wandering lines. In this, it recalls the free movement of “travel,” a theme Nakajima has taken up in recent years. Behind the lines’ wandering are not only the plural “others” involved in the activity but also the conflict and self-criticism imparting asymmetry to the relationship between artist and participants. hereafter, I want to watch Nakajima’s actions closely to see how his flexible collaborative projects find compatibility with his productions rooted in a particular problem, awareness.
Hikari Odaka
Curator, Museum of Contemporary Art Tokyo
Curator, Museum of Contemporary Art Tokyo